感想置き場

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クレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生 』感想

 実はこれを読むのは2回目なのだけど、1回目は世界設定やら人物名やら時系列やらを追うのに必死だったうえにラスト付近の怒涛の展開に打ちのめされて放心するばかりだったので、今回すべての前提を理解したうえでもう1度読んだことでようやくしっかりとこの物語について理解できたような気がする。
 「もし死んだときが人生の終わりではなく、完全な記憶を保ったまま同じ人生をやり直すことができたらどうするか?」という命題は、様々な人々が思い描いたことのある夢かと思われるけど、この話ではそんな特殊能力を有する者(作中用語ではカーラチャクラ、またはウロボラン)が少なくとも紀元前3000年前後から組織立って存在していたという点が面白い。「死んだときの知識をそっくりそのままもった状態で生まれた年に帰ることができる」という特性を生かして、そのとき最も若い者が最も年老いたものに伝言を伝えることで、「未来から過去へ」メッセージを届けることができるという発想には唸らされた。
 ただ少し理解できなかったのは、何をもって「世界が終わった」と認定しているのかという点。それを決めているのが神でも大いなる意思でも何でもいいのだが、「早すぎた技術革新が引き起こした核戦争による環境汚染が世界の終焉を速めた」というところまではわかるとして、「すべて」が終わったとされて巻き戻る瞬間とはいつになるのか?何にせよ観測者がいなくなれば世界がその後どうなったかは知りようがないので、人間の認識が及ぶ範囲としては当然「最後の人間が死に絶えた瞬間」か「最後のカーラチャクラが死に絶えた瞬間」になるのではないかと一応私は仮定した。しかしこの話にとって最も重要なのは「世界が終わる」という事実とそれを「どうやって阻止するか」ということなので、そういった細かいことに頭を悩ませるよりもどんどん読み進めた方が利口だったなと今となっては思う。
 そんなややこしい設定を理解する大変さに加えて、主人公ハリー・オーガストによって語られる時系列が頻繁に飛んだり戻ったり唐突な回想が挟まれたりするために「いったい今は何回目の人生なんだ?」とページを戻って確認する大変さもあったので、1度目は読むのにものすごく時間がかかった。それでも投げ出さずに楽しく読み続けられたのは、やはり生まれ変わるたびにハリーの人生が大きく様変わりし、「次はどんな波乱に巻き込まれたり自らそこに飛び込んだりするんだろう!」とわくわくさせてくれる展開が常に待っていたからだと思う。ハリーは土地の管理人、大学教授、研究者、兵士、医師、僧侶、巨大犯罪組織のボスなどの実に多岐にわたる職業に就くが、彼がカーラチャクラの中でも更に特異なネモニック(一度覚えた知識を絶対に忘れない者)であるという点を考慮してもなお、その適応力の高さや忍耐力、ここぞというときの閃きには驚かされた。いくら何百年も生きているといっても、どんな国でもどんな職業でもそれなりにハッタリが効くというのはとてつもない才能な気がする。死を恐れないカーラチャクラが最も恐れるのが「精神の死」であることから、どれほどの歳月を生きようともその重みに耐えられる強靭な精神がなければ意味はないんだろうなと思った。

 ここからはこの物語最大の面白さと私が認識している、ヴィンセント・ランキスとハリーの関係について述べる。
 私がこの本を読み終えて強く感じたのは、「愛と憎しみと殺意は全く矛盾せずに同時に存在することができるのだな」ということ。ヴィンセントとハリーの関係はとても一言で表せるようなものではない。お互いがお互いの1番大切な存在になれたらよかったと心から願っているのに、それが決して果たされないこともまた心から理解している。2人はとてもよく似ていて、相手を愛している気持ちを失わないまま、目的のためにその相手を殺すことができる人たちだ。己の行為に心が引き裂かれそうになりながらでも、どんなに涙を流しながらでも彼らにはそれができる。そういう点ではやはり2人は世界で1番の「同類」だったと思う。
 2人の関係について語るために避けて通れないのが「量子ミラー」なのだが、「量子ミラー」がいったいどんなものなのかは正直に言って私にはよくわからなかった。宇宙が量子によって作られているのだから、逆に量子から宇宙の「すべて」を知ることができる、という理論のところまではおぼろげにわかったのだがそれ以上は無理だった。仮に事細かに説明されても絶対理解できないだろう。
 とにかくヴィンセントは宇宙のすべてを知る者、つまり神になりたかった。ハリーもその崇高な目的に一度は強烈に惹かれたことは事実。ヴィンセントとハリーを分かつものは、「自分が神の目を手に入れるためには他のどんな犠牲を払っても構わない」と思っていたかどうか、この一点のみだった。カーラチャクラは人生を何度もやり直せるとはいえ、「やり直し」ゆえに自分の生きた時代より過去や未来へは行けないので、たとえ地球環境を犠牲にしてでも技術を限界まで早送りしないと「ヴィンセント自身」が量子ミラーに辿り着くことはできないようだ。ハリーはそのために犠牲になる無数の人たちの人生のためにそれを阻止したわけだが、「永遠に同じことを繰り返すだけの世界で"生きる"などということが、"神"の前でいったいどれほどの意味があるというのか?」というヴィンセントの問いには私ですら少し「た、確かに……」と思わされてしまった。普通の人(作中用語ではリニア)である私ですら揺らぐのだから、繰り返す世界の虚しさを知るハリーならより実感をもって量子ミラーの魅力を理解できたのではないか。それでもハリーは「人としての営み」を捨てるべきではない、と決めてヴィンセントに勝利した。逆にヴィンセントは、天才であるがゆえに「ただの人としての営み」を続けることに我慢ができなかったのではないかと思う。
 結局のところ、お互いの正体をまったく知らないままでひたすら宇宙について白熱した議論を交わせていた頃の幸せな日々を2人は忘れることができなかったのだろう。自分と同レベルの頭脳をもち、性格的にもウマが合う人間とする討論は、お互いにとって至上の喜びだったに違いない。決定的な決別をするまで、その関係は非常にうまく行っていたのだが前述の通り、ハリーは神よりも人であることを選んだ。しかしヴィンセントは、ハリーが心の奥底に本心を隠して上辺だけの誓いをした瞬間に全て悟っていたというのがまたニクい。ハリーが嘘をついたことも、直後に取るであろう行動もすべてヴィンセントにはわかっていた。それほどまでに2人をつなぐ絆は、良い意味でも悪い意味でも取り返しのつかないほど深く結ばれていたということだろう。
 ハリーを拷問する際にヴィンセントはギリギリまでその手段を行使することをためらい、最後まで決して自ら手を下そうとはしなかったが、私はそこにこそヴィンセントの本質があると思っている。ためらうだけの友情、もしくは愛情をもつことができると同時に、必要ならば拷問をする決断ができる合理性も持ち合わせている。そして彼の中で最後に優先されるのは常に合理性の方であった。友達が可哀想だからと止めることだけは絶対にしないのがヴィンセントの在り方。そしてその事実は決して愛情の不在とイコールではない、ということが重要だと私は思う。拷問を決めても自ら実行することは気が引けた、というのがその証拠だ。
 この物語においてヴィンセントは最終的に敗北するが、彼にとって唯一の弱点と言っていいものがこの「ハリーへの情」だと思う。もっと言うならば「自分にとって最高の友人であってほしいハリー」への情というべきか?ハリーの記憶を消去した(と思っている)ヴィンセントは、自分からハリーに会えるように仕組み、彼をいついかなるときもそばに置くようになるのだが、初期に関しては記憶が本当に消えているかどうか確かめるためで間違いない。しかしハリーの記憶が完全に消えていると確信できたなら、万が一に備えて監視は付けておくにしろ常に自分のそばに置いておく必要はないと私は思う。研究にはもはや何の役にも立たないとハリー自身も証言しているのだから。ハリーはその理由を色々と推測していて、それらすべてが揺らめきながら渦巻いていると称していたけれど、私は量子ミラーの前でヴィンセントが言った「そばにいてくれ」がすべてだと思う。友が欲しかった。理解者が欲しかった。だから負けた。 
 ではハリーが勝ったのは友情を捨てたからか?と言いたくなるのだが、実はそうではない。何度も書いているが、彼ら2人にとって愛と殺意は同時に矛盾なく存在するものなのだ。問題は配分の違いだけ。ヴィンセントはそれまで常に最終的には合理性を選択する男だったが、ハリーの狂おしいほどの献身を受けてついに愛(もっといえば誰かにわかってほしいという想い)が合理性を上回った。ハリーもまたヴィンセントを愛していたことは間違いなかったが、それでも「するべき」ことを選んだ。それが勝敗を決めたすべてだろう。